★天使回廊からの夢☆

 
「ただの人間には興味ありません。宇宙人,未来人,異世界人、超能力者がいたら、私のところに来なさい!以上。」
−この21世紀初頭の涼宮ハルヒのメッセージは,地球の意識を先鋭化した形で代弁しており,
形のない光のネットワーク形成を呼びかけていると感じます。
地球はアセンションして新宇宙の無限水平ステージに軌道変容しようとしている。
ハート地球の胎動が聞こえて来,ワクワクドキドキとしませんか☆ 

『緑川玲◇Twitter☆』は、右サイドフリースペース RECOMMEND のすぐ下にあります★

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四天王寺△謹製●聖徳太子和讃卍

が、遂に約15年ぶりに見つかった!

見つかったのだ!!!!

一字一句をテキストとして認めたいが、ちょっと今はそれだけの時間とマナスが欠けているため、

スキャンでご紹介したい。<(_ _)>



卍 聖𢛳太子和讃


卍 開 經 偈

無上甚深微妙法  百千萬劫難遭遇

我今見聞得受持  願解如来眞實義


卍 聖𢛳太子和讃

歸命頂礼禮聖𢛳皇      日本傳燈能化の主

観音應化と慈現して        三寶興隆成し給う

豊日の宮の夜の夢        金人救世の願を告げ

誕生し給う砌には     光明西より来り入る

身には妙なる香の匂い   握りし御手を開きてば

如来の舎利を持ち來して   南無佛とは唱えしか

聖教始めて説き給い    諸悪諸作・諸善奉行

世間虚假・唯佛是眞    自浄其意と教えけり

・・・・・・















| 21:53 | 正法・正道 | comments(0) | trackbacks(0) |
仮相と実相―仏教の原点をたどる
 先の記事『堀田和成◇『ヨブ記』引用紹介と少しの感想◇旧約聖書:正道卍』に続いて、仏の教えの本質である『四諦の道理』から『仮想と実相』までを慈愛深く明かした本書より、特に一般には知られておらず、神と真理への革命的認識変化をもたらす内容を中心に、ごくごく一部を紹介します。

 これにより、生前本物の高橋信次を、文証や現証の面で支えた、堀田和成氏の説く正法=正道が、本物であり、高橋信次の法に引けを取らないものであるとの感覚をお持ち頂ければ、紹介する喜びに尽きるものはありません。


三界と輪廻からの脱出


 極楽と言われる階層も、争いを逃れた千人強、桃源郷を指すので、この生活に飽きが来れば、再び娑婆に戻って来て、損した得したの渦に入って来ます。
このように無色界の精神的満足は、色・欲界の比較の上に正立しているので、いつでも下に落ちる要素をはらんでいます。自己陶酔から覚めれば、他に移動するしかないからです。
 三つの階層は輪廻する世界となります。
 自分本位になった時は欲界の世界が心に拡がり、
人の立場を認め自分の立場も認めてもらおうとする意識は色界に自己を置いています。
 両方の世界を厭い、精神的満足を求める意識は無色界の世界を心に描いているでしょう。
 人の心は、その時々の環境や条件によって、これら三つの世界を行ったり来たりしています。
 そして人の心がどの界を一番大きく占めているかによって、人の考えや行動となり、それが心の世界となって死後のあの世を形成します。従ってあの世とは今の一日の生活の中にあって、それは未来の死後の世界にも繋がっていると言える。

 三界を別の角度から見ると、「無色界」は「天界」、「色界」は「人間界」、「欲界」は「地獄」に区分できる。

 死後のあの世について、仏教もキリスト教も天国と地獄の二つに分けている。
つまりその中間層は人間界であり、人間は死後どちらかに行くことを示唆している。
中間地帯はあるようでなく、その状態に留まれば、再び人間界に戻って生活することになる。

 このように人間は、天界にも地獄にも行ける自由な立場にあるも、天界に行くことができても、再び人間界に舞い戻る可能性があり、安住地ではないことになる。煩悩を滅却していないため。
 昔から犹鯵Δ鵬箸覆鍬瓩噺世錣譴襪里蓮∋鯵Δ砲楼多瓦靴同塀擦垢覯箸ないので、そう言われた。
 輪廻の世界は定住地がなく、不安と孤独が付きまとい、時が来ればあの世に帰り、また再び現象界に生まれ落ちる。

 これを現実の心の姿として見れば、ある時は欲望のままに行動し、ある時は自省し安心する。そして定まる心がないので常に動揺し、変化を繰り返す。
 そこでどうしても煩悩の絆を断ち切り、「滅諦」の道理を自己のものとしなければならないというのが釈尊の教えであると共に、正道の目的でもあります。

 幸い私達は人間として肉体を持ち、天国も地獄も思いのままであり、どちらにも自由に移動できる立場にある。
 しかしそれとは違ったもっと善い世界に行くことができる。

 その世界は、仏教的には仏の世界であり、菩薩の世界を指す。
 仏の世界はともかく、菩薩の世界は心と行いにより誰でも行ける所と言える。
 この界は自我の立場が少なく、神仏の立場に自己を置いて、献身に苦痛を感じない意識のいる世界であり、心です。自分があるようでない、いつも神仏の側にあって、人々の苦を除き、安らぎを与えるために心を砕く世界です。

 慈とは梵語でマイトリー。友情・好意を指し、悲とは梵語でカルナーと言って、同情や憐れみを意味します。つまり菩薩とは友情、好意、同情、憐れみの心となる。

 友情と言ってもたいてい自分があり、色界の友情は相対的で、利益が反してくると味方が敵になってしまう。
 菩薩の友情は利害に関係なく、相手が変化してもこちらは変化しない。いつでも友として受け入れる寛容さを持っている。

 物事の基準は神との調和であり、平和。
 求めるものがないと物事が成立しないのが心の世界。

(緑川)
求めるもの とは、一念のこと。 一念発起の一念。

正しい目標・道標、向上のための計画、企画が必須。
そんなものはなくてもいいは、単なる現状で満足せよの詭弁。

正しい目標や目的を持ってこそ、それに意識を合わせて近づくことができる。
最初からそうなっているのだは、向上や目標否定するための言葉遊びに過ぎず、心理厨の戯言で、とても危険。


 菩薩は三界の自分中心から離れ、、神仏の側に自分を置いている。
 このため神から永住の家が与えられ、三界から抜け出している。
 二度と輪廻の苦界に身を沈めることはない。
 永住の家は神の光に覆われ、安らぎに満ちている。
 この世的には安心という宝が与えられ、他にない力が与えられる。

 これを仏教では六神通力と言い、自在無碍の力となってその人を守り、先導してくれる。こうした力が発現しなくとも、直感力が鋭敏に働き、通力と同じように機能する。
そして天使の援護を得て安心と調和の生活が送れる。



人類の業と神の意思

 大量生産、大量消費という乱費の問題が続くと地球資源が枯渇し、ある限界を超すと、物が急速に不足し始め大量消費の咎めがやって来る。
 歴史にもはっきりと爪痕を残しており、昔フェニキアと言われたレバノンの惨状を指摘する。
 昔杉の巨木がうっそうと茂った森林地帯だったフェニキアは、欲得のためにいくらでも木々を伐採し輸出した。伐採の後植林を怠ったため、山は緑を失い禿山となってしまった。
 そして雨は遠退き悪循環が重なり、大地は乾き今日の砂漠地帯と化した。

 砂漠化の侵攻は現代ではいよいよ加速し、食料不足を招き、大量消費の咎めは世界的な問題になってきている。

 さらに大人の世界も自らの利益の拝金思想と物を大量消費するだけの唯物思想に支配され、物の本質にある精神・心を忘れてしまった。

 そして国を滅ぼす快楽主義と唯物科学絶対主義。

 科学は生活に便利をもたらした半面、人間や自然に様々な害を与えているにも拘らず、科学は問題を解決してくれるとの先入観を植え付けられた現代人は、科学は信じても神の言葉に耳を貸そうとはしない。
 そして人間至上主義の考えはますます強まり、人間にできないものはないと、傲慢が人の心を支配している。
 この増上慢は、心の中にバベルの塔を築いているのと同じ。聖書に出てくるバベルの塔は、人間が神となり、人間にできないものは何一つないという思い上がりです。
バベルの塔を築いた人々に対する神の怒りは、人間の言葉を乱し、互いに言葉を通じないようにした。人が集まると功名に走って野心を持ち悪事を働くので、神は人々の分散を図った。

 科学による人間至上主義の咎めは、聖書は人間の悪事に洪水をもって報いているが、今度は水攻めでなく火攻めとなるかもしれない。火攻めとは天から火の玉が降って来て、地上を焼き滅ぼすことを意味します。

 様々な予言は、あながち出鱈目ではなく、傲慢の行き着く先は、地獄の死しかないことを示しています。予言は警告です。人々が神に心を向けなければ、どんな善意も善事も同じ道を辿ることを教えている。

 神に心を向けずして為される人間の善事は、実に小さなものとなる。
 神に心を向けていない時は、いつも自分があって、環境や状況次第で善意はいつでも悪意に変わり得る要素を持っている。
 従ってこうした善意・善事は神の目から見ると当てにならないもので、神の目に大きく映って来ない。
 神に目を向け、神に信を置き、生かされていることを心に止めた善事は、神はその善事を褒め、その人を守ってくれる。
 神は神に心を向けた者しか愛してくれません。
 また神、神と呼ばわる偽善者は神を否定するものですから、これも同じです。
 神は妬み、怒りをお持ちです。
 なぜなら神によって生かされ、命を与えられているのに気儘に行動し、神の宮(地上)を汚す者をどうして愛することができるかということになるからです。
 神は何をしても赦すものと勝手に決め込む人間の傲慢には、神は鞭を与えて来るでしょう。地球を消すことも考えているかもしれません。
 科学主義の弊害は先に行くほど大きく表われ、人類を苦の底に引き込んでいくがん細胞の際たるものと言えます。


正道の乗り物

 『彼岸への道』の中で、私はある乗り物に乗ったことを記述しましたが、これについて触れてみます。
 この乗り物はまことに巨大で、丸ビルより大きな物体でした。目の前に停止している時は、およそ乗り物というより建物といった感じです。
 草原の丘の上に降って湧いたピラミッドのような乗り物は、幻のように聳えています。
 私が乗る前です。その物体から多くの人が左右の両側から降りて来たのです。その数は何十人以上だったでしょうか。私が乗ったのはその後ですが、最初私はこの意外な光景に見とれ、眺めていました。
 一体この乗り物なり、乗り物から降り立った人々の目的はなんであったのでしょう。当時の私にはこれといった手掛かりはなく不明でしたが、ずっと後になって、この時の様子を理解することができました。
 この乗り物は、天体間を飛行する乗り物のようで、時間空間を超えた四次元物体でした。肉眼では見えず、たまたま見る時は光としか映らないでしょう。
 この物体から降り立った人々は、他の天体からやってきた人々のようで、目的は精神の啓蒙です。この中には三次元の縁ある人を通じて肉体を持ち、所期の目的を果たしていく人もいることでしょう。
 昔から天空を駆け抜けていく炎なり、あるいは炎の車に乗って昇天する人の姿が語られていますが、これらは地上での所期の目的を果たし、舞い戻っていく姿を描いたものでしょう。聖書にもこれに類することが述べられています。これらは空想でも何でもなく、本当にあったことと思います。しかし神や魂についての関心が少なく、心が地上に向いている限りは、そうした奇跡が起こっても目には見えず、不明のままで終わってしまいます。

 私が乗せられた乗り物が天空に舞い上がる時は、最初光の塔の中をゆっくりと上昇しますが、やがて信じられない速さで飛んでいきます。地上の科学は光速以上のものは捉えていませんが、このふったいはもっと速いスピードで飛んでいくようです。

 ともあれ、この種の物体はどこへ行くのでしょうか。地球の最も近い所に月があります。金星がある。太陽がある。しかし、ずっと先の宇宙に行くと、ある天体があるようです。そこは人間の想像を遥かに超えた世界であって、永遠の都を創っているようです。天空を駆けるこれらの乗り物は様々な天体から来ていようですが、乗り物によっては、この天体から来て、そこに帰っていくようです。
 ところで彼岸の終着駅は、この天体をおいて他にないようです。全宇宙の動静が、ここではすべてキャッチされ、正しく神を愛する者があれば、平安の光が瞬時に送られる仕組みもあるようです。反対の場合は光が閉ざされ、暗黒となり、破壊へと進んでいきます。宇宙から見た地球は小さな塵で、地球はまだ生死を繰り返す未熟な星の一つのようです。また地球の生存とその生死は、そこに住む人々の行動にかかっています。

 前節で正道の乗り物は正しい祈りと中道の生活にあると述べましたが、その中身は先に見た乗り物が用意されていて、人の心に応じて旅立つことを意味しているでしょう。彼岸の終着駅に到達することはたいへん難しいことですが、しかし人は誰しも差別なくここに行ける資格が分け与えられており、それは理性を養い神を愛する信がどこまで貫けるか、そして自我を放棄し、霊の自分を自覚できるかどうかにかかっています。

   ・・・

   ・・・

「はしがき」より

 正しい信仰は物事の理解から始まり、理解を深めることによって、物事の真実と虚構が明らかとなり、無明の人生から智慧の人生に変わっていくものでしょう。

 本書は、我々を取り巻く虚構と真実について共に考え、ものの実相の手掛かりになればと念願し、まとめてみました。おもに仏教の立場から今日の正道を捉え、題して『仮想と実相』としました。仮想とは実体のないもの、迷うもの、苦しむもの、変化するもの、無情なもの。実相は実体のあるもの、平安なもの、不変なもの、一流なもの、そして慈悲となります。



 勿論根底は、神仏の慈愛と、人が心と行いを正すための、誰でも理解できる心の法、この世の真実と虚構の峻別の理解が重要と語られている。すべてはシンジツ妄語など、虚構の際たるものだ。この天上からの救いの智慧と光―心の普遍法は、人としての基本であるはずだ。
大切に真理の道標とし、生きてゆきたい。



前記事:『堀田和成◇『ヨブ記』引用紹介と少しの感想◇旧約聖書:正道卍』





      






| 15:29 | 正法・正道 | comments(0) | trackbacks(0) |
「神を試みてはならない。しかし、神の命令は進んで守り実行しなさい」
ヨブ記の中に貫かれる言葉は、罪とは何かを問いながら、人は正しい信仰に生きることを結論付ける。不幸の底に沈んだヨブの心は迷妄の淵に立たされ感覚の世界に揺り動かされるが、ヨブは神の息が私の鼻にある間は私の唇は不義を言わないと言い節を曲げなかった。モーゼはしばしば民の代弁者となったため神より与えられた国に入ることはできなかったが、ヨブ記は友人たちとの問答を通じて本来の自己に立ち返り、人の道を語り尽くした。

「私が生まれた時が裸なら、死ぬ時もまた裸です。私の恵みは主が与えられたもの。そのすべてが失ったからと言って、何の不足がありましょう。私はこうなっても決して神を信じて疑いません。」
ヨブの信は固かった。環境の激変に対しては、ヨブは、神様を呪うことはしなかった。



堀田和成の説く神様、主とは、旧約や新約的な背景があっても、主の代理人=天使の事ではなく、人霊の進化した高級神霊ですらない。宇宙を創造した意思に対して、主と呼んでいる。
その主が人の姿を取って表れることもあるとも語っているが、それは高橋信次の死の直前に説いた、主の代理人であり真のメシアとも言われるエル・ランティ―のことではない。
堀田和成は高橋信次の文証や現証の実質何割かを行っていたが、巨星の片腕としての霊的・人格的力を持っており、ずっと横の立場でサポートしていた。
その後混乱した組織を離れて法を説き始めた後は、高橋信次の信者や法の後継者としてではなく、それまでの正法をベースとしつつも、新たな堀田の霊的道理的悟りで再構成された、ネオ正法=正道を、信仰祈りと三戒をベースにして説き始めた。

堀田和成の法に、高橋信次では明確に説かれていなかった、真理のコアを感じる。
しかし、それは別物ではなく、根は一つで、別の面から救命したものだと感じる。視点や内容が、高橋信次とは、異なっていると。

ヨブは神から目をかけられ今日でいえば億万長者の何不自由ない身の上だったが、一夜にして乞食同然の身に突き落とされる。富から貧困、幸福な家庭はアッという間に崩壊する。こういう例は自然災害などによってよく見られる珍しくない現象の一つだが、ヨブは稀に見る信仰者。預言者でもある。その人がどうして見るも無残などん底に突き落とされ苦しまねばならなかったのか。物語はここから、罪の報い、罰について問いかけながら、展開していく。ともあれサタンを登場させヨブの生活をめちゃめちゃにするが、その狙いなり意図するところは、神がサタンを使ってヨブの心を試すということ。
固い信仰者にしばしばみられる、浄化の過程の一つとして与えられる試練でもある。
もしヨブに信仰もなく、自分の力でこの世を渡って億万長者となったとすれば、こうした試練に遭うことはない。この世を終えたら、あの世でその反作用を受けることになり、その苦しみはヨブの比ではない。

この頃のサタンの概念は天使の一人が地上の人間のしくじりを摘発するいわば検察官、人間の敵、邪魔者を指す。障害の役割を受け持った天使を指してサタンという。
このため物語は神の子の集いの中にサタンがおり主の前に立って主と会話する設定になっている。今日では想像もできない配置。

悪が人間の心にあると同時に、その心を持って他界した悪魔が人の近辺に徘徊し、様々な形で不幸を齎している事実がある。つまり目に見えぬ姿で、客観的にも魔は存在する。これらの霊の介在を許さぬようにするには悪の想いから離れ、神の加護を受け背れるように正しい信仰に精進すること。

「こんな酷い目に遭っても、なおあなたは神様を信じるのですが。いい加減にして下さい。いっそ死んだ方がましです。」妻に言われるまでもなく、息子や娘を亡くすばかりか、持てる財産全てを失い、訳の判らぬ病気まで背負い込んでしまった。妻の言い分が判らぬヨブではなかった。ヨブの姿は生き地獄そのもので、二目と見られぬ変わり様だったからだ。
「なんという口さがない女だ。まるでどこかの愚かな女が言う事を言われる。私は神様から幸いを受けた。ならば、災いを受けてどこに不思議があろうか」
ヨブは自分に言い聞かせ、災いと戦っていた。彼は、その唇を以て、神を呪い、罪を犯すことはしなかった。


信仰の段階。
神は絶対の権能を持った方なので、その神を信じていれば、決して悪い事は起きない。また悪い事が起こっても、必ず良い事がやって来る。

信仰の基本で間違いはないが、唯物的考えが色濃く、希望や期待が外れるといとも易々と崩れる信仰。

良い事悪い事は喜怒哀楽の範疇で、決して心を平安に導かない。そこでこの世の苦楽に執着せず、苦楽のない神の国へ帰るための信仰。前より進んではいるが、執着しないことに寄せて、この世の義務を疎かにする。これでは正道の信仰とは言えない。

信仰の終着点は、神の側に心を置き、神の足跡を踏んでいく者。それは神様になる事ではなく、神様に奉仕し、人々に奉仕するもの。
神は生きとし生けるものを生かすべく働いておられる。真の信仰者は、その一翼を担う者になるということ。

そこには原因と結果の思惑や期待はない。神に初めと終わりがないように、その信仰に初めも終わりもない。信仰に初めと終わりがある間は、迷いは決して消えることなく続くもの。

主は慈悲深い方。心を自分に向ける者は例え悪を働いた者でも救いの手を向けられる。誰一人として、神以外の者から分かれた者はいないから。神が一番嫌う者は、いつも言うように傲慢な者、神を否定する者、弱い者をいじめる者、善人を装って他を騙す者など。

カルマによる人の輪廻は気の遠くなるような転生を続けている。このため、この世以外については知る者はほとんどいない。そこで、振り返って自分を見直し、正しい祈りと三戒(想念・言葉・行為)を正すことに努めることが、何より先決となる。不幸は神を現すためとイエスは言われた。悪い事が出てしまえば次は良い事しかない。しかしそう受け取れる人は少ない。神によって恵まれたものならば不幸もまた神によって与えられたと受け取るヨブの言葉が理解できるようになれば、その人は一歩も二歩も前進し悟りに近づいた者となる。


真我の自己は肉体に纏わる喜怒哀楽に揺れることはない。揺れる自己は肉体に繋がった心で、五感と深く交わり結びついているため、真我に気付かず、五感の己を自分と受け取り、その偽我の満足に喜び、不利益を嘆き悲しむ。ヨブは試練を受けているが、それは偽我の自己に対してで、真我ではない。


シュヒ人のビルダデが、エリパズに変わって、ヨブの疑問に答えて語った。

まず、あなたは人の歴史を学べ。先人たちが歩いた道を学ぶことだ。我々の知識、経験など足元にも及ばない。第一この世の人生など陽炎のようなものではないか。先人の教えは智慧に満ちている。そこから、多くのことを学べば道理が判り意味のない愚痴などこぼさなくて済む。魔世威と欲望の産物である心理中毒改造奴隷化偽スピなどに、騙され唆され洗脳されずに済む。

ヨブは答えて言った。
「あなたの言うとおりだ。だが、人は神様の目から見てどうすれば正しいものとなれるのか。仮に神様と言い争ったとしても、千に一つ、勝つ見込みはない。神様の智慧は、底知れず、大きく、しかも深い。誰が神様に背を向け栄えた者があるか。一人もいない。神様は、いとも簡単に山を動かし、大地を地の底から動かすなどなんの造作もないことだ。神様が命じれば、太陽だって昇ることさえできない。星も光を失う。神様は、ただお一人で、森羅万象を支えられ、どんなに荒れ狂う波の上でも平気で歩かれる。
天空に煌めく、北斗の七星、オリオン星座、プレアデス星団(すばる星)、そして、南の星座も神様が造られたものだ。神様がなさることは、人知では測り知ることはできない。このほか、奇蹟としか言いようのない不思議を、数限りなく、我々の住む世界で行われる。」
「神様は、傲慢な者を怒りをもって打たれる。私には、全能の神様を相手どって、議論し、説き伏せることなどできもしないし、そんな気持ちはさらさらない。たとえ私に落ち度がなく正しい人間と見られていても、そんな気は起こらない。今の私は、ただただ憐れみを求めるだけである。」

「しかし、獣に問うてみよ、それはあなたに教える。空の鳥に問うてみよ、それはあなたに告げる。あるいは地の草や木に問うてみよ、彼らはあなたに教える。主の手がこれをなしたことを知らぬ者があろうか。」
作者は、人間を初めとした生き物は、皆、神から命を与えられたもので、そこに違いなどあろうはずがないと言っている。生き物の魂に違いというものはない。違っているのは、それぞれのカルマだけなのです。
―ここでのカルマは、善業悪業ではなく、役割、使命と思われる。

多くの場合、神を信じると言いながらも死後の生を信じる者は少ない。それは意識が物質波動に縛られているためだが、ではなぜ神を信じるというのでしょう。神様を信じていると言えば悪い事は起こらず果報を与えてくれると考え、また死に際してそう思い込まないと不安て゜ならないから。神を否定する者よりマシだが、この種の信仰は偽善です。物と精神の両方を取ることはできないし、こういう人は状況次第で信仰が変節する。

―人のエゴによる、神信仰は、得てしてこのようなものだ。
傲慢にも、身に起こる現象によって、神を計りにかける、信仰の名を利益としか思えない、エゴ(偽我)から一歩も出る事のできない人が、神信仰者の中にも半分以上いる。

仏教的信仰者には虚無的な人が多い。物に執われると迷いを増すが、しかし、一切を空とし死後を無としたときは、神を否定したことになり、生前の生活姿勢の程度によっては、長く暗黒世界に落されることになる。この世が暗黒になっても、決して虚無に心を託してはならないということだ。


モーゼの主は言う。「主である私は、ねたむ神であるから、私を憎む者には、父の罪を子に報いて三代、四代に及ぼし、私を信じ、私の戒めを守る者には、恵みを施して千代に到る。」と。この戒めは何もイスラエルだけではない。すべての国民に当てはまる。理由は、地上の生物は神に生かされているからです。


ねたみなどは、今の世の宗教や道徳等では、ネガなもので、そのような心・感情を持ち続けていると、人は救われないと説かれている。高橋信次もそうであった。
しかし、あくまでも人の心の状態だ。

絶対的正義、慈悲、智慧、真善と聖を本質とする神が、ねたんだりうらむはずがないと考えるのが正論であり基本だ。
ただしこれは、主なる神の性質ではなく、この粗雑な物質世界の法則として述べたものではないかと私は考えている。
神を憎んでいる親が、清らかな精神であるはずがない。そんな親から生まれた子も、トンビが鷹を生むという例外でもなければ、親と似たり寄ったりだ。その子も孫もと見ていくと、親子の道徳的観念の遺伝には、似たものが強く及ぼすと考えられる。
その逆に、神を信じ愛し感謝して戒めを守る親は子に伝わり、それも子に伝わるはずだ。自然には

また主なる神は、そういう子孫を反映へと導きたいと考えているだろうし、主を憎み否定する子孫は、主という神以上に、地上と宇宙の進化向上という法則から言えば、厄介な血脈という事になるので、主の恵みは施さぬということになる。
これは、法則ではなく主の神としての、恵みの采配という事になる。


「神さまは智慧の袋をお持ちで、信と求める量に応じて人に与え、こう説明された。『智慧とは主を恐れること。悟りとは悪から離れること』だと」。
この場合の悪とは自己中心、自己保存の想いと行為を指す。

「老いた者智慧者にあらず、経験を積んだからといって道理をわきまえた者ではない。己の魂が神に通じた時は、この世の年齢に関係なく、心を開くことができる」




      



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